封印され
護られ
連綿と血脈で伝えられた
特殊な遺伝子コード
や118
は遂に覚醒する
あなたには、いにしえの時代から連綿とその血脈で伝えられた特殊な遺伝子コードがある。そうだ、あなたは日本人。この実に不思議な民族のおひとりだ。
最初に明記しておきたいことだが、正確には、日本民族などと言う単一の血統があるわけでは決してない。むしろ、歴史を通じて、地球上の様々な地域から、洋の東西を問わず多種多様な民族がはるばると道をたどり、山を越え、海を渡り、この地にたどり着き、そして世界のどこにも見られない豊かな調和の文化へと融合され続けると言う意味での民族である。
その証拠のひとつとして日本人には、世界中の人種の顔がうっすらと浮かび上がっていることがわかる。また、世界中の様々な文化を受け入れ、より良く改善していく傾向も、その遺伝子の混入度合いゆえの外来のものに対する当然の寛容さがなせる術なのかもしれない。
世界中の人々が互いに行き交い、遺伝子鑑定も容易に行われるこの時代にあって、それを疑う余地は無い。
つまりは、上古に地球上でもっとも長く平和な時代を紡いだと言われている縄文人の遺伝子の上に、世界中からの様々な民族の遺伝子が加味され、見事に融合されていったということを最初に理解しておいていただきたいのである。(縄文人がどこから来たのかは、ここでは問わずにおこう)
そしてあなたは今、その日本人という融合民族の血を引き継いで、根深い迷妄と真実への覚醒の時代にお暮らしということになる。
さて、一般に知られている日本史上、今だかつて、このように多くの人たちが気軽に海外旅行をして見聞を広めることができた時代はなかった。
そして2020年、あのパンデミックの後は、極度の円安により突然、海外旅行が困難になると同時に大量の外人観光客が世界中から日本に押し寄せるようになった。
地方のさびれた温泉街ですら、それらの姿を頻繁に見かけるようになって、むしろ海外のお客のおかげで持ち堪えている旅館が多いどころか、実際その繁盛ぶりがすこぶる芳しい。
さて、このような前代未聞の時代に日本人は実際のところ、一体何を体験させられているのだろうか。
ここでいささか逸脱御免。
この春と秋に日本を訪れた際、できるだけ現場の声を聞きたいとの思いもあって、行く先々でご縁をいただく人たちとは、努めてお話をさせていただいてきた。
もちろんそれは生きた情報の収集のためでもあり、そして筆者が日本と関わる最前線の貴重な営みでもあるからで、大抵の場合は、決まって次の言葉を皮切りに会話を始めさせていただいている。
「やっぱり海外のお客さんが多いですか?」
返答はあらかじめ承知しているが、お一人お一人がいろいろな主観を述べてくださるので、興味が尽きる事は無い。
そんな中でやはり印象深いのは、特にタクシーの運転手さんと温泉街の料理旅館などの支配人クラスの方の共通の声である。その声の示すところを最大公約数的にまとめてみると、
「ほとんどが海外のお客さんですが、私は海外のお客さんの方が好きですね。日本のお客さんは尊大で、お礼さえも言ってくれませんが、海外のお客様はことのほか謙虚で、常に私たちのサービスに感謝してくださいますから、こちらも感謝の思いいっぱいで楽しく働かせていただけます。」
ただし、これは日本人が海外のお客をもてなす側としての意見であり、また日本における主と客の関係性は、根源的な日本人の感性の発露でもあるため、以降あなたとともに見て行こう。
しかしここでは、海外のお客が日本のサービスに対して、どのような想いを抱いているかという視点を取り上げていることに留意していただきたい。
さて、本題に戻ろう。
図らずも30年以上、海外に身を置くようになった筆者の知る限り、訪れる海外の人々はもっぱら日本の文化の素晴らしさ、日本人の優しさ親切さに驚きの声を禁じ得ないのが現状である。それもあらゆる局面で。
そしてインターネットの発達によって、それらの声は全世界を瞬時に駆け巡り、日本に来る人たちは、今や大変な憧れを持ってこの国に降り立つようになったが、果たしてその思いは、ほぼ裏切られる事は無いばかりか、幾多の感動で日本に対する賞賛がさらに高められているのがもっぱらである。
同時に、多くの日本の人たちが、その事実に気づいていないということも面白い。
21世紀に突入してからというもの、世界はますます管理されようになり、個人情報は様々な理由を装って徹底的に吸い上げられてしまうどころか、人々は急速に構築されつつある巨大なグローバルシステムの一部として有効に機能するよう巧みにプログラミングされつつある。
同時に多くの人たちがそれに気づいて、本来の人間らしく生きてゆく道を模索しながらも、日本の現在を腐敗と支配、不安と闇の蔓延する有様と卑下するケースも多いのかも知れない。
しかし、全世界がその方向へと押し流されつつあるので、日本はやはり、諸外国から見れば、燦然と輝いているのは特に海外に住む日本人の多くが抱く共通の認識である。
それでは、当の日本で暮らす人たちは、映画やテレビ雑誌、ネットや小説などによってではなく、このような肌見で感じる外国人との交流によって何を学んでいるのだろうか。
ひとつ言える事は、なるほど外国人と日本人は、物の考え方が少し違うのだと、つまりそれは、ひとりひとりが今一度あるいは初めて、日本人であるということの再認識を余儀なくされていると言って差し支えないだろう。
それを日本人が自らの実体験を通して知らず知らずのうちに、繰り返してしているというのが実状だと思う。したがって、日本人には少々特異な感性が宿っている事は、もはや多くの人たちにとって、周知の事実となりつつある。
この特異さ、つまり世界において極めて珍しい国民性は江戸時代末期頃から特に西洋の知識階級に知られるようになってはきたが、近代においては世界を牛耳る勢力にとって、疎ましい存在となり、様々な横恋慕を被るようになった。
こと、第二次世界大戦の後、ある意図のもとに、どんどんと欧米至上主義の世界観で日本は染め続けられ、さらに史実を無視して歪曲した歴史観を植え付けられたことで、日本人であることに対するある種の概念、単刀直入に言えば、国際社会における極度の劣等感と罪悪感が日本人の心にどっしりとのしかかっていた。
しかしながら壊滅的な荒廃から立ち上がり、急速な経済成長と技術進歩を成して世界の大国の仲間入りを果たしたこの日本で、時代は下り、世代はどんどんと若返り、さらに様々なジャンルで、世界を驚嘆させる活躍をする日本人も目立つ今となってそれらは、世界的な支配構造の維持のため、あの時代が与えた方策に過ぎなかったことがわかる。
そして今、私たちが伝統的に、当たり前のように感じ、行動してきたことが、現在の世界の水準に照らし合わせたとき、その秀でた質が、ありありと目の当たりにされるものである。
それら一つ一つを検証していけば、枚挙に暇がないが、あらゆる情報が開示され続けるインターネットの時代、あなた次第で、それらの事例を際限なく確認することができる。
しかし、そこで大切なのは、あなたがはたして、
日本人としての自覚を育む事ができるのか
ということであり、もしそうでなければ、膨大な情報のウズに巻き込まれ、ただ自らを混乱に落とし入れていくだけに終わるだろう。
しかし、もしそうならば、自ら調べて学んでおくべき事は自ずと分かってくるに違いない。そしてその先に進みたいといった抗しがたい衝動が湧き上がってくるに違いない。
実際、日本の民族性を根絶やしにしようとする力はますます強く、そして巧妙狡猾にして、もはやなすすべなしの様相すら呈し始めている。多くの日本の人たちは、それに気づいていない、いや、気づけないような仕組みとなっているのである。
あなたは諦めるのか?
しかしあなたは今この声にこころを向けている。
もうすっかり海外のでの生活が長くなってしまった筆者にとって、リアルタイムの現状把握は困難になってしまい、既にもう死語になってしまっているかもといぶかる、昔から言い継がれた言葉があるが、筆者はいまだにこよなくその言葉を大切にしている。
それは筆者が子供の頃、叱られる際には、それを言われたらもはやおしまいよと云うような、とどめの決め台詞であった。
「それでもお前は日本人か?」
さあ、これを言われると、何とも無性に悔しさと恥ずかしさで胸が苦しくなったものだ。そしておのずと反省が促され、新たな決意が清々しい心生えへと結実していったものである。
しかしながら、では一体何が日本人かと問われたならば、おそらく即答することはおろか、いつまで経っても明確な返答はできなかったと思う。
この独特の感覚は何だろう。
その背後にある意識とは何だろう。
そこにきっと日本人の特異点がある。
とすれば、日本人と言うのは、それほど公正明大、清廉潔白な民族であるのか?いやいや、それは私たち日本人の多くが持つあまりにも当たり前の理想であるに違いない。あるいは、心の底の底に宿る願いなのかもしれない。さらにそれは、私たちの血に宿る生命の叫びと言ってもいいだろうか。
つまりここで日本人の精神性についての具体的な確認をあなた自身において進める必要が生まれてくるのである。
日本人の精神性については、今までたくさんの先達方が立派な研究やお諭しをされているので今更、筆者のようなものががあれこれ申し上げる由もない。
筆者はただあなたが既に持っているしかし、意図的に封印されてしまった、あるいは自主的に封印してしまった当たり前の日本人の習性を白日のもとで堂々と再起動していただきたいだけである。
しかし残念ながら、日本人の心は、あまりにも多くのもので汚染されすぎてしまった。だからこの声種はおそらく多くの人のこころに根を下ろすこともないだろう。
しかし古き良き時代の余韻と來るべき全く新しい時代の予感の狭間に日本人として生まれ育った筆者には、これからの時代の人たちのために、そして筆者自身の人生の総括ために、どうしても書いておきたい事がある。それは筆者が日本人として日本のために残して往ける唯一のものだと信じるからである。
そうだ
わたしには
どうしてもあなたに
聞いておいて欲しい事がある。