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公開日:2020年10月10日

さて、そろそろ弘くんのお話に戻ろう。

どのようにその日一日をツアーガイドとして過ごしたか詳細は定かではない。いつものようにあちらこちらとハワイ島の雄大な風景を示しまた、めぐりながら楽しくやっていた事だろう。

どこでどうなったのかもやはり覚えていない。しかしこの青年を眺めているといつしか私の胸の内にある思いが生まれた。

「そんなに長く滞在するんだったら、しばらく家にいらっしゃい。よかったらツアーの助手としてボランティアしてもらってもいい。家に滞在して好きなように過ごせばいいじゃないか。家族の者たちも大歓迎だよ。」

この言葉に青年は驚いたかのように目を見開いて、しかし無言のまま私を凝視した。そして彼は一生懸命ことばを探しながら一言

「い、い、いいんですか?」

と言うことで思い立ったが吉日、クケアロハをしばらく出ることにした彼は次の日このツアーの道順において島をほぼ一周というところで通過する、手嶋レストラン前で、乗り込んでもらうことにした。知る人ぞ知る、ゲストハウスクケアロハはそのレストランのそばなのでお客人をまだお乗せしているツアー車両で迎えるには好都合であった。

実は、日米ともに青年を自宅に受け入れるのはこれが初めてのことではない。この年になるとやはり多感な時期であるはずの青年たちを見るにつけ、何とか生き生きとした素晴らしい人生を歩めるようにと祈る思いに駆られてしまう。決して人様に自慢できるような人生を歩んできたわけではないし、自らの愚かしさを今も日々見せつけられるにつけ、52歳になっても子育ての事やこれからの将来のことで色々と迷っている拙い私だ、何も胸を張って示してやることなどはできないけれど、まがりなりにも50年以上はこの世にあって様々の経験を経た事だけは確かである。彼らのよりよく生きる糧になるような何かを伝えてやる事はできるはずだ。

戦後の日本でどんどん失われて行った、日本独自の人生観、倫理観、は、私の青年期においてもすでに、はっきりとこれだと諭してくれる大人たちが少なくなってしまっていた。食うにに食われぬ、生きてゆくこと自体に命を燃やさねばならなかった時代とは違って、豊かな時代に生まれ育った私は、大学生の頃からいかに生きたらいいのかと言う問いに頭と心を悩ませる日々が続いた。社会が与えてくれるその価値観で私に満足いく答えを与えてくるものはなかった。友たちがうかれている様々な刺激に自らを迎合をさせる事はできなかった。

結局のところ、敗戦後は信じがたい日本の底力を思い知らされた支配国家連合たちがその源泉を絶ち、二度と再び自分たちを恐怖させるような国にはさせじとその特徴的な精神構造を解体していく、そんな教育をセットアップしたのである。その最も大きな基盤になる概念とは日本は世界侵略を試みた戦争犯罪国という洗脳。

日本は大きな過ちを犯した。欧米社会が正しかった、日本は劣っていた。日本は間違っていた。というような観念の注入である。これは真実の逆だ。今なら多く日本人が知っているようなこれらの洗脳教育の事実は当時、ほとんと紹介されることもなく、何かがおかしいと感じずにはいられない釈然としない気持ちのまま、なんら明白な答えも見つからぬままにあれこれつまづきながら、結局、教育や情報からではなく血肉の奥から、自分に納得のゆく人生観を魂の底から覚り出してゆかねばならなかった。所詮いくらアメリカナイズされたとはいえ日本人はやはり日本人なのである。そしてその自覚がなかったときには表層からどんどんとそれらしき価値観が突入してきたが、しかし結局、歴史的背景も、精神構造も違った人たちの価値観を消化しきれないのはのは当たり前だ。混乱と動揺が心を染める。

70年代までの、人間の本質的な自由と平等が尊厳を持たされていた黄金期と比べて今のアメリカは金融ですべてを価値判断してしまうそんな国になってしまっている。多かれ少なかれどのいわゆる大国もそうだろが、かつての雄々しき精神を輝かせた多くの国々も今この時代にあってはあまり威光を感じることはない。つまりすでに一時代は終わったのだ。しかしながら、だから日本もこのようになっていったのだと諦めてしまうことがやはりできないのからこそ書かざるを得ない。だから機会があれば将来の日本を背負って立つ若者と触れ合ってこの想いを注入しておきたい。だからこぞ現代社会の中で生命力を失って漂うように流されながらうつろな目で生きる若者たちを見るとやはり一声かけてやりたい気持ちになる。おそらくこの思いは私たちの上の世代の人たちも同じように我々に感じていたに違いない。いつの時代も、

「今の若いもんは」

なのだ。わたたしたちも同様、そう言われて育ってきている。あっ、今、思い出したことがある。高校時代数学に村松先生(仮名)という老年の数学の先生がいらっしゃった。その先生は帝国海軍の士官でおいでだった方で、私たちはその話をネタに色々と先生の陰口を言ったりした。

ひとこと言いたい。今、私がもしタイムスリップしてその高校時代の自分に会ったら大声で

「馬鹿もの!無礼者!!」

間違いなくと殴りつける、というか少なくとも怒鳴りつける。

今でこそ、あの先の大戦における教科書には載らない真実の歴史の理解があるが、誠にアメリカ至上主義において日本の歴史を曲解し誤てる歴史を教えこまれ、日本人が、自らの文化、感性を蔑んだ時代。心の貧しい時代。

「だから日本人は、ねえ。。。」

尊い先達たちの生き様をあざ笑うかのような愚かしい態度を私を含め多くの若者が持っていたことに今更ながら臥薪嘗胆に堪えず、歯ぎしりやまぬほどである。

高校時代の修学旅行は、進学校であったため、確か2年生のの五月に催行された筈だ。東北へと向かう、5クラス200人からなる団体をいくつかに分けてみちのくの様々なルートで、思い思いのコースを楽しんでいた。私は奥入瀬渓谷から十和田湖そしてたつこ姫伝説の田沢湖にかけての散策コースを選んだが、およそ30人程の仲間たちと遊覧船に乗り込んで相変わらずはしゃいでいたのであろう。村松先生はそのご引率のために他の数名の教官らと、まさにそのコースにご同行なさってくださったのである。

しばらく全体の様子を俯瞰されていた村松先生はおもむろに船首に向かって歩き出された。常日頃から姿勢の良い方であったが、その時の颯爽とした姿の強い印象が今もはっきりと思い浮かぶ。へさき近くで立ち止まられて、のに着くと、ただすっと、とお立になり、手すりに右の手をお添えになってひたすらはるか前方を眺望されていた。あまりにも凛としたその立ち姿に、さすがに気がつかないものはいなかった。少なくとも私の周りにいた、悪ガキから果ては若手の先生方に至るまで。その日常とは全く違った異質の、いや、まさに美しさをその時の私たちはどう受け取って良いのかわからなかったのだろう、戸惑った結果、知りうる限りの愚かしい知識からでた反応は、やはり恥ずかしさの極みと言うべきものである

「おうっ、村松爺さん、また戦争起こすんか?戦争犯罪や、犯罪者や」

そのように艦尾からひそひそと我ら悪ガキどもは嘲笑っていたのである。 

村松先生はつね日頃の授業で、凛とした態度を保ちながら決して感情に与しない淡々とした平静さを保たれていたが、クラスが騒がしい時はただ大きなお声で

「やかましい!」

と一喝されるだけでその後は全く何事もなかったかのように平々とお話を続けになった。

「ですからここで、こう微分をして、増減表ですね

ただしその一喝は、邪気を薙ぎ払うかの迫力があったものだ。

今だからわかる。そして今となってはもう遅い。もっともっと先生に敬意を持って近づかせていただきたかった。一度だけ教官室に数列の漸化式に関しての質問をしに伺ったことがある。

「試験の当日の朝だ。お断りする。」

それだけだった。

様々な戦争時代のご経験や若い頃からのお話をお伺いすべきであったと失ってから気づくそのチャンスの尊さ。ほとんど話をすることもなかったあの幻の先生に思いを馳せている今日この頃である。

誠に誠に痛感する。あの人としての美しさ。男としての美しさ。私たちはかけがえのないものを見失ってしまった。いや日本人である感謝を失ってしまった魂の亡者に等しい。

当時でもすでに60代後半にいたらんかと言う先生であるあれからもう40年以上が経っているおそらくこの世にはもういらっしゃらない。そしてあのような魂を持ちになった先生方まだたくさんいらっしゃった時代だったと思う私ははっきりと言いたい。もうひとつここに綴っておきたいことがある。

断絶され失われかけているその日本人としての自覚を今こそ若い人たちに少しでも蘇らせていただきたいと思う。全くその滅びの道の真っ只中に駆け降りていった世代の私たちにしてあのようなこと言う資格は全くなく、しかし少なからず今の若い子達とそしてまだ一応、凛としていた人たちが多かった時代の間には橋渡しができればと切に思う次第である

だから心の思うままに青年たちを家に招くことがあった。しかし前回の試み   において深く失望した経験があり、それ以降やすやすと気軽に声をかける事は控えていたのである。

と言うことで弘くんはその夜ツアーの後我が家に帰宅することになった。

家族のものも大歓迎であるである。こちらとしても私1人しかこの家には日本語を話すものがいないのでそれ以外の日本の滞在してくれることを子供たちにとっても色々と良い刺激になると常々思っていた。

次の日から早速アシスタントとして同行してからもらうことになる。朝3時に起きなければならない。朝5時からのお迎えがあるときなどは必ずそうだ。そして軽く準備を整えて安全を確認した後、車にエンジンをかける。

弘くんは何かお手伝いすることはありますかと元気に言葉をかけてはくれるが、、その時私自身でも驚いたことであるが、一旦弟子として引き取ってからと言うものは私の心は弟子に対しての厳しさと鋭さをたたえるようになっていたので、

『何を愚かしいことを聞くのか?そのようなことを尋ねる暇があれば、言われる前に気遣って、自分で考え見出すのが弟子の道ではないのか。コーヒーぐらい入れないのか!』

と言う思いが突然湧き上がってきた必死でその激情を抑えながら

『じゃぁコーヒー入れてくれる?』

と平静を装って言うものの、瞳におそらく強いものが。称えられているであろう。それを悟られないためにも決して目を合わせなかった。

私は必ずしも厳しく育てられたわけではない。父もそれほど厳格な人ではなかったし母親もいたって優しい女性であった。私は思うがままに何不自由なく、日本の高度経済成長期にそってびのびと成長してきたのである。しかし一旦、日本を出てからと言うものそして家族を持ち子供を育てるようになってからは意外なほどに既に消え果ててしまったかのように思える明治時代までの父親像が私の中に刷り込まれていたことが、我ながら驚きだった。

意外な一面であった。その日、弘くんは気をつけて扉を開けたりお客様に色々とお手洗いの案内をしたり水を配ったりお弁当面倒を見たりと細々と働いてくれたのでいつも1人仕事であくせくする私にとって、大いに寛いだツアーであった。

そういう日を3日続けた後、弘くんは、明日は家にいていいですかと尋ねてきたので私はもちろんと答えた。

その日、ツアー中に電話をかけて家族のものに弘くんの様子を伺ってはみたが、なかなか楽しく子供たちの面倒を見てくれたり、犬と散歩に出たり、日本食を作ってくれたりと大活躍をしているようで、なかなかやはり見所のある青年だとほくそ笑んでいた。

休日の日、弘くんにフリーダイビングを教えてあげようと言うことになったので私のお気に入りのオーシャンエントリーへと彼を連れて行ってやることにした。大くんの肌は重度のアトピー性皮膚炎で荒れていた。先に書いたように私にも経験がので今更、慌て驚く事はなかったが、さすがに痛ましい思いが禁じ得ない。しかしそういうことも一向にに気にしないで笑顔を輝かせている彼は1週間前に出会った時とは随分と印象が違っている。

いろいろと彼の話を聞いてみた。現在23歳。高校卒業してから1年浪人の後志望校に失敗してからうつ病になったそうであると思う高校時代は野球部に所属していたが明らかに競争心に乏しい彼は、ここぞと言う時に必ず人に大切ないわゆる出世のチャンスを譲ってしまうと言うような感じで、実力ありそうながらも常に3年間補欠だったそうだ。卒業後は、大学進学を目指して1年間、浪人生活となるが、その頃より、アトピーの症状が悪化して、ご家族共々、相当苦しんだらしい。そしてついに、うつ状態に陥る。

プアコの岩場にはとっておきのオーシャンエントリーがある。そこはかなり波の強い日でもしよう飛沫が立たない立たない静かな小さな家のように機能しているところだ。その日は朝からなぎだったのでいとも簡単に入水することができた。そこからは泳いでしばらく沖の方へ出て行く。すると300メートルほど行ったところで途端に海底がドロップオフ。突如、水深が15メートルほどへと至るそこが私のお気に入りの素潜り場。

体の力を抜いて完全にリラックスして海と一体になるような感じでしばらく白目をむくように漂うようにしている。ゆっくりと息を深く大きく続け、特に吐く息意識をのせる感じで寛ぎを深めて行く。様々な思考からも解き放たれて、心が静まったところで大きく息を吸い込む。そしてジャックナイフ。さらには足を、水中の頭から胴に線上に合わせて、1本の棒体となって、海中に滑り込んでゆく。ゆっくりと足ひれを動かしながら、適度に耳抜きを優しく繰り返して、緊張のないところまでゆっくり潜っていくのだよ。

何度か私が海底まで潜る様を見せてやったところ 10メートルほど潜ると水圧の関係で肺が萎縮し浮力が十分でなくなり体は沈み始める。つまり10メートル以上の海底では急に寝そべったり座ったりすることができる。そしてその状態で見上げると広大な青の宇宙が静かに広がっている。

久しぶりにタバコが吸いたくなったのジェネラルストアに座ってコーヒーを飲みながらお気に入りのタバコを久しぶりに味わった。

結局、彼は2週間ほど家に滞在したがその後はどこへ行くともはっきり言わぬまま家の者たちに丁寧なお礼を言ってまた旅立っていった。

1週間ほどして彼は帰ってきた。色々とその間の話をビールのつまみに聞きながらほろ酔い気分でとてもいい感じである。よくしゃべるようになった顔に浮かぶ表情も見違えるように明るい。話によれば、ハワイ島中をヒッチハイクで回って来たという。思えば、失語症的な雰囲気を持っていた彼が今ではヒッチハイクで異国の地を自由にめぐると言うのか。ことのほか急速に進化していく彼の様子驚きを禁じえない。ただし喜びがいっぱい溢れてくる。

本当にこの青年を家に招いて良かったと思う。この人はハワイ島で自分の殻から出てきた。そして自分の弟のようにも思う。見事に一人で島の隅々を回った武勇伝を聞いて満足げにしている私に彼は

『いつもお礼にお世話になった人には通をあげてきました。』

と話してくれた。妻の話では、手先の器用な彼は子供たちによく折り紙を教えてくれたそうだ。風車を作ったり、見事に折り紙を編み込んだ帯を折り合わせ玉手箱を作ったりしてくれている。これはお礼だと言わんばかりそのカゴいっぱいに色とりどりの鶴が山ほど盛られていた。

彼は空港に送った後嫁と2人で1本のコーヒーショップに 立ち寄った。ワイメアコーヒーカンパニーといってこの島でも最も賑わっている地元のコーヒーショップではないだろうか。支払いの時ふと目にとまったものがある。私は娘を呼んで目配せをしてそれを示すと娘はしっかりとうなずいた。店のスタッフにその訳を聞くと、オーナーのまマックスが

「ワイメアまである日本人の青年を乗せてきてやったら、それ置いていたんだ。」

と言う。

この出会いにはまだまだ続きがあって、その後の2年の間に何度か手紙が来ていたが、ミクラ島からの手紙や八丈島からの手紙といった離島からのものが多かった。彼はこのハワイ島での経験を通して大きく人生観を変えたようで、当面のところは色々と古代日本のアニミズムを探るような昔ながらの礼拝形式を残す離島を中心に巡っているという。どうやら彼も目覚め、これからの日本の心を支えるの大黒柱になるだろう。

ある日、ツアーを終えて家に帰ると戸口で

「お客さんが待ってるわ」

と家のものが告げる。扉を開けるとなんとそこに弘くんがにっこりと

「お久しぶりです!」

と声を上げて喜んでくれた。と、すかさず後から

「母です!」

となんとも神々しいお母様がご登場されて以来、今もお付き合いが続いて、その後日本に行った時などは東京の宮崎邸にうちの者たちが2週間もお世話になって様々な 経験をさせていただいている。

なんとアトピーも全治しているではないか。聞けばツアーを通じて知り合った北海道出身の針の先生を紹介したところ今では家族ぐるみで通院していると言う。ツアー中にで先生がおっしゃっていた

「アトピーが治ります。」

はやはり真実なのだ。

ちなみにその先生ご夫妻と宮崎家の方々とは今も仲良くお付き合いを続けさせていただいている。

この記事の著者

ポハク西田
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