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公開日:2020年6月22日
最終更新日:2020年6月23日

「あれっ!」

ようやく明るくなり始めたハワイ島西海岸の風景がうっすらと周囲の車窓に浮かぶ頃、私は今更ながらにすぐ傍の助手席にいる、長髪の青年に気がついた。もちろん、半刻も前にケアウホウショッピングセンターでお迎えした客人なので、まさか助手席に人が座っていたとは、などという滑稽な驚きではない。よくあることだが、朝の出迎えのずっと後になってから、やんわりと胸に沸き立つ既知感のようなものが、同じ人を大いなる親近感ともいうべきものが包むことがある。ちなみに、このショッピンセンターでのお迎えのケースは十中八九、クケアロハ(実名)というリトリートハウス滞在の客人である。

「君、この前も来てなかった?」

青年はその小気味よく切れ上った細みの瞳をいっぱいに見開いて何かを言わんとしている様だが、小さい穴に太い棒切れを突っ込もうとしているかのような、圧迫された気圧が切なかったけれど、辛うじて私を凝視しながら応えることができた。

「2ヶ月前に来ました。」

早朝のホテルを巡りながら、次第に開け染まる東の空にうっすら浮かぶマウナケアの輪郭を客人がたに示しながら交わした、ほんの1分のおぼつかぬ会話が、宮内ひろし君との心の邂逅の瞬間だった。

そう、私は宮内くんをhiroJ と呼んでいた。先回のお付き合いの詳細等は覚えていないが、この長身長髪の青年に驚きと、そしてこういう青年も今の時代にいるのだという感動を、方々の散策ポイントで会話するたび、またその立ち居振る舞いのすがとを遠くからちらと眺めるたびごとに、好感を持ったことははっきりと憶えている。

HIRO J。このJはご存知JESUSのJとお考えいただきたい。彼を見ていると、その全身から、血が滴り落ちるような、自らを殺して何かに捧げんとしているのような痛々しき神聖を感じるのだ。なぜ?もちろんわからない。もしかしたらその透徹した清い雰囲気と、自分をうまく言い表せたない哀れさとそして時々その腕や首筋に見え隠れする、かなりのアトピーの症状がそう思わせたのかもしれない。

それではここでちょっと脱線しよう。実はこの私もアトッピー性皮膚炎に悩まされて来たということだ。

確か10歳だった頃の事だと思う。当時サッカー少年団に所属いた私は夏の炎天下に仲間たちと大きな声を張り上げながらグラウンドを駆け回っていた。しかし奇妙なことがその10歳の夏に起こった。、襟首や腕の関節のあたりに痒みを覚えるようになり、気がつけばいつもポリポリポリポリと掻いていたものだ。やがてはじめは赤らむだけだが、やがてそこに発疹が現れそして次第に症状はひどくなって、ついにはその部位は赤くただれて干からびたような、象の肌のようになってしまう。ついに思いあまって、梅本(仮名)皮膚耳鼻咽喉科という、今ではちょっと聞くことのない奇妙壮大な看板を掲げる行きつけの町医へおもむいた。当時はまだまだおおらかな時代だったのだ。実にありがたいお名前ではないか。細分化がどんどんと進む今日、ますます同じ領域の中でも様々な専門分野が分離独立して、お互いの関係や相互理解が乏しくなりゆく状況が様々なジャンルに見られるのではないか。それに対して梅本先生のサービス精神はやりその、医者のとして、人々を救おうとする強い使命感の現れとしておく。その梅本医師にこの症状を尋ねてみたところ

「あーこれはあせもや。」

と一蹴されてしまった。出された塗り薬を定期的につけるものの一向に良ならないばかりかむしろ炎症を起したりますので、後日再び訪れてみるとさすがに先生はやや顔をしかめながら、

「もしかしてこれは今ちょっといわれているあの、アー、ピー、そうそう、アトピー性皮膚炎と言うやつかも知れんな。」

と言うことになった。その年の夏より始まり秋には小康状態、そしてまた夏になるとその症状が顕著になる。結局医者はこれといった治療法を見いだすことができなかった。さてもそれほどひどい症状ではないと考えていたので、色々と母とともに対処法を探ったものである。アロエをつけたり、湿布で患部を被ったり、或いは井戸水で洗ったり塩水で洗ったりと。いずれも時代を反映する素朴な方法であるが、結局は患部をかかないことが最良の両方であるという結論。しかしそういうわけにはなかなかいかない。特にまだまだ子供だ。日中は何とかしのげても寝ている間に思う存分ボリボリ、バリバリやってします。つまり完全に患部が癒されることなく毎年汗ばむ季節になると、その症状の悪化が恒例のものとなっていたことが今思い出される。

夏休みにはみんな真っ黒に日焼けしていた小学生たちがあふれていた時代。もちろんその先陣を切るのが超活発な私ではあったが腕の関節部や首筋に斑紋があたかも漂白されたかのような白さで小麦色の肌に孤立している。これはその症状の痒みに堪え兼ねて何度も何度も肌をかき破ったためにメラニン色素がそこに沈着したかったからである。

歳月も経て少年の私も随分と大きくなった。結局その症状は後10年以上続くことになったわけであるが、そろそろこの辺でことの顛末を詰めておかなければならない。何しろこの物語はひろし君が主人公であるからだ。

大学生となった。高校卒業後、2年間の自宅浪人をした私は20歳の年にで大学生となった。その頃にはもうアトピーは私の体の一部となっており、さほどの嫌悪も感じないままにしかし無意識にいつも体中の痒みの部分に指を当ててはポリポリとやると言うひとつの奇態を習得していた。すでにその頃には患部は全身に拡がっており、全身の皮膚が変色するほどの重度ではないまでも、常に顔面や首筋や特に腕などにその症状が現れていた。

まぶたにもそれは見られ、軽く爪でほじくり返すようにしてはあたかも脱皮中の蛇やトカゲの肌のような剥離した皮膚の表層が、ポロポロと目の前に落ちる。退屈凌ぎに、ふる雪に見たたてはなかば楽しんでいたものだが、やはり多感な時期。異性の目も少なからず気になる。また時折ふと自らが常にイライラとしていることに気づくこともある。そのような青春時代でついに心の底からもうこういうものはまっぴらごめんだと思うようになって行った。

その頃とある本でチベット密教の修行僧が独房での瞑想体験を綴った記事に出会う。今思えばそれがきっかけとなって、私に光が差し込んだ。


それによると純金で内装されたその特殊なチェンバーで一定の期間にわたる隔離瞑想修行すると、耳の穴や鼻腔、涙腺などからなんとバケツ一杯分ほどの膿が出るということだった。それは彼によれば、肉体を通して自分のカルマが外へと浄化排泄された結果だと言う。

「そうだ、この皮膚病の原因は全て俺自身にあるに違いない。浄化のプロセスに間違いない。それなら、何とかなんとかその浄化をいっそう進めて欲しい。」

そう思うようになった。そしてある時ついに私は心の中で声なき声ではっきりとこう叫んだ。

「もう、どうなっても構いません。全部自分の責任です。ですからどうかこの浄化のプロセスを一気にやって下さい。長々と続くのはもうごめんです。どうかよろしくお願いします。」

まさしくこれは祈り以外のほかなにものでもない。そして一体どうなったのか。

それからの1年間、私はさまざまな皮膚の病や症状に襲われることになった。札幌にある大学に籍を置いていたのだが、その付属病院は道内でも権威あるものとされていたので私はアトピーがひどくなったときについに足を運んだことがある。実にあの梅本皮膚耳鼻咽喉科以来の快挙である。その権威ある大学病院の医師はもちるんアトピー性皮膚炎と判断したあと、淡々と対処法を説明して、ある塗り薬を処方した。ステロイド系の副腎皮質ホルモン含有の塗り薬である。ところが、下宿で患部に施したところ、翌日にほ眼球内の血管が破裂していて、うさぎの目のような真っ赤な状態へと発展していく、つまり副作用である。と言って、患部には一向に改善の兆しは無し。その時にはっきりまた誓ったことがある。

「もう自分の体の症状で医者に頼るのはやめよう。

アトピーに加えて、それまでは未体験だった蕁麻疹というものや、不可解な発疹、そしてことあるごとに原因不明のアレルギー反応を示すようになった。さらにまた愚かしいことに、鎌倉の友人へ北海道の銀杏を送ろうと素手で銀杏を集め素手で皮を剥いてしまったりした。果たして結果は、全身が呪われたかのように銀杏の毒素に侵され、身体の正中線を軸に全く左右対象にその毒素が、両手を上り、首、顔面、頭部、背中と、全く左右対象に巡ってゆくのが手に取るようにわかる。その移動経路のに沿って、ミミズ腫れのような忌まわしい症状が各部位を侵して巡る。そしてその二つの流れが、男性器で合流した時、密かにこのままでいいと思わせるほどに偉大なものとなっていたがこれは冗談。さらにそこからまた左右に分かれて両足を降り、ついに両足の裏にいたって、どうやら抜けて行ったのか、解毒されて、悪夢はさった。

私は訳のわからぬままに、この受難を、祈りが何かの変容をもたらしている実感だけに支えられて、ひたすら忍んだ。何しろお願いしたのはこの私なのだから。そして、ある日、奇妙な腫物が、尾骶骨の上、仙骨のあたりにできた。座るのが億劫だ。痛い。しかし1週間ほど続いては自然に引いてゆき嘘のように消えてしまう。ところがまた数週間後に同じものが発生する。そのようにして何度も繰り返した後、ついにこぶし大と思われるような巨大な突起物がその尾てい骨の上にもりもりと発生した。もはや立って歩くことすら困難を覚えるようになる。発熱も伴った。一旦誓ったのもの、もう一度だけ附属病院へと行かざるを得ない心境にもなった。しかしその名だたる大学病院の医師の判断では

「これは明らかに何らかの外傷からばい菌が入ったんですね。そこから炎症を起こしているのですよ。抗生物質を出しておきますから服用してください。」

と言うことであった。もちろんその薬などは一切手を着けていない。そしてはっきりと誓い直した。

「もはや自分の体の症状で医師に頼るのはやめよう。自ら受け入れよう。やがて癒される。よもや不治のまま死に至ろうともそれは自らの麗しき運命として抗わず、心静かに受け入れよう。」

既にもう歩くことができないほどの不快感、発熱も伴い、ついに私は下宿で床につくよりほか何もできなくなってしまったのである。

下宿屋の2階の自室でもはや布団に横になることしかできなくなってしまっていちにちふつかそうしていただろうか。うとうととしている時に夢を見た。その時天のはるか高みからこのようにしか表現できない澄み切った女性の声が響いたのである。

「完了しました」

はっとが覚めた私は思わず当たりを見渡したがもちろん誰もいない。やはりここは下宿である。夢ともうつつともつかない不思議な思いで我に帰ったとたん、今度は便意を催した。これは困った。もはや歩くことすらも困難であり、まして便器の上にしゃがむ事などは (当時はまだ和式のトイレが主流で、今のような様式で便座に腰かけるものではなかった、和式と言って床にはめ込まれた便器の上に蹲踞の姿勢でしゃがみ込むんでことに望んだ。)至難の離れ技のように思われる。しかしそのまま床でじっとしているわけにもいかずついに覚悟を決めて、恐る恐る四つん這いとなって部屋を出て、そのまま廊下をつたって、便所までたどり着いて引き戸に手をかけた。

この厠のモザイクタイルの床に手をつけることがないように注意しながらなんとか立ち上がり、中腰で便座をまたぎ両手は壁に押し当ててゆっくりと慎重に腰を落とす。患部が突っ張るためにもうこれ以上は、というところで、滑稽な話ではあるが、かなりの落下距離を保ったまま事をなさねばならない。しかしその時と

「ボン!」

あからさまな破裂音。腫れ物が音を立てて裂けた。

トイレットペーパーを押し当ててみるとなんとゲル状の灰色の膿がどくどくと溢れて出て、少し血液も混じっている。ゆっくりと患部を揉むようにしながら膿を出し切ると、かなりの空間がその中に生まれた。

「この膿、これはきっと

この日を境に積み重なった様々な皮膚の症状が消え、もちろん腫れ物も二度と起こらなくなった。以来30年、一度もアトピー性皮膚炎が再発した事は無い。つまり、ほぼ一年で完了したのである。そういう背景が私にはある。現在52歳。

つづく

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ポハク西田
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