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公開日:2017年5月9日

それは今からどれほど前のことだったでしょうか。もう定かなことではございませんが、あるご家族がツアーにご参加されました。お見受け致しますところによりますと、40代のご夫婦と、そのお子さん、そして奥様のご両親という感じだったと思います。そのうちのお爺さまが、なぜか気になっていることに気付いたのはハワイ島最北部、カパアウに立つカメハメハ大王オリジナル像の前で、みなさまのお写真をお撮り致しているところっだっだとも思います。

まず、お爺さまと申し上げるにはいささか躊躇していまうほどに、その立ち居お振る舞いの節々に矍鑠として毅然たる雰囲気に溢れていらっしゃり、なにぶん深々とベースボールキャップをお被りでございました故にその瞳はおろかお顔の半分は拝見できずじまいでただ、そのお口元には終止、やんわりとした微笑みが浮かんでいます。更にそのお帽子の真ん中に、どこでお調べになったのかお知りになられたのものか、この愚輩ポハク西田の本名であるニシダヤスヒロのイニシャルYNがはっきりと、それもなかなか好いデザインでお入れくださっております。ますます不思議と驚きの感に打たれながら、ただ者ならぬ印象を吾が胸中におともしになられる方でございました。

そのお方はツアー車両が、お散歩スポットに到着するたびに、小生の仕事のお手伝いをこちらがお願いもせぬままに嬉々としてなさって下さいます。さっとその身のこなしよろしく真っ先にドアを内側からお開けになり、下車され、お客様おひとりおひとりの御降車を、その御手を自らお差し伸べ遊ばしてのお手伝い、更にお客様のお背中に他方の御手をその移動速度に合わせてさりげなく追い添えされながら、ササ、という言霊で安全注意を喚起させるという、ポハク西田のスキンシップの奥義まで極めていらっしゃいます。殊に男性のお客様へのご親切ぶりには目を見張るものがあり、その筋の方なのかとも思わせて頂きましたが、この小生も今だ逢瀬は持たぬまでも、幾人かの男性とのプラトニックな純恋愛経験はございましたし、ニューヨーク時代には乞われるままに彼氏に振られ寂しいがっていた、コロンビア人のカミロと、兄弟家族同然で付き合いをなしていたこともございます故、別段取り立てて、身構えもないままにどんどんとそのお爺さまに惹かれてゆく自分を感じていたものです。

そのころは、確か、カラパナの溶岩地帯を歩き、実際に溶岩が海に流れ込んでいるところをご覧いただいていた時期でございまして、お客様にお怪我のないよう細心の注意をお願いさせて頂きながらも、ママ、みなさまタラタラとまさに流れる溶岩さながらに、海沿いの世界一新しい大地をお歩きでございます。ここぞとばかりこの時間内にそれまで募った大好奇心を一気にさらけ出そうと、件の大先輩に寄り添わせて頂きながらお話を伺うことが出来ました。

先輩はとても不思議な方ですね。失礼とは存じますが、昔はいかようなお仕事をなさっていらっしゃったのでございますか、と、お足下の安全を確認させて頂きながらお尋ね致しますと、深々とお被り遊ばされていたそのお帽子、小生のイニシャルまでかっこ良くお入れ下さっていたそのベースボールキャップのつばををその時始めてお上げになり、えも言われぬさわやかな笑顔で、ワタシは30年間、自衛隊隊員指導の任に当たっておりました。退任後、今はセブンイレブンで働かせて頂いておりますが、いやあ、民間企業は誠に大変ですなあ、利益を上げねばならないですからねえ。毎日店長さんに叱られてばっかりです。
ほ、ほ、惚れた。完全に惚れました大先輩。小生はこの爽快な語り部もさることながら、先輩の瞳に深く感動を覚えたのでした。炯々とした眼光の鋭さは、限りなく澄んだその瞳の奥の奥、一体この清き目力はどこから放たれて来るものなのでしょう。答えはますますはっきりとしてまいります。その光は明らかに、この大先輩の魂でございますね。そのことは口では現さぬまでも小生、あまりにもの感動のために、それを讃える柔らかな表現を必死で探さねばなりません。この時代にかくのごとき御方がいらっしゃったとは。更にこの思いは大先輩のお口からいやその高貴なる魂から溢れ続ける珠玉の言の葉によって、どこまでもどこまでもこの胸の内に強められ、灯火がほむらとなって、ついに涙と結ばれ頬を伝います。

先輩はツアー当初より、ほかのお客様のことを随分とお世話いただいておりますが、自衛隊員さんのご指導にお当たりになられていらっしゃった御方が、どうして、かくも柔和でいらっしゃるのでしょう。と、あらぬ不躾なことを尋ねてしまいますと、いやあ、隊員教育は厳しさだけではだめですから。何と言っても本体を守ろうという男たちへの教育は愛です。長期の演習や山行、同じ釜の飯を食って、寝起きをともにし、屈託なく腹を割って語り、労をねぎらいながらもやはり、士としてのあり方をみんなで考えます。士として立つ者は愛する者、愛する本体のために喜んで行きます。愛のために愛を愛するのですよ。左様におっしゃる大人(うし)のお姿には御陵威なる光り輝き出で、当たりの溶岩も地響きをたてる高波の打ち付けも全く、そしてほかのお客様のことも正直、しばらく脳裏に消滅してしまいました。唖然です。

どれくらいたったのでしょう。表層溶岩の雲母状ガラスを踏みしめるザクザクという音が耳に入り、ふと大先輩のお若き時代のお話などを伺ってみたくなりました。

ワタシはね、防衛大学時代にやはり悩んだのです。これで俺は本当にいいのかってね。このまま士官候補生として卒業し、そのまま制服を着たまま一生を自衛隊に捧げてしまっていいのかってね。時代は高度経済成長まっしぐらでしょ。ちまたは活気づき、同世代の連中は近い将来に期待される物質社会の繁栄を夢見ながらみんな力一杯やっている。俺は本当にこれでいいのかって悩んだ時期があるのですよ。ああそうですかと小生は敬意を表して深々と相づちを何度も打ち続けました。それでね、とうとう大学を辞めようと思ったのですよ。何かこう自分で思いっきり、事業でもやってみようと思ったのですね。しかし辞める前に、一度だけ、同僚であり親友でありライバルでもあった男にひとこと相談しました。寮の自室で机に向かっていた彼に背後から、おい、俺、大学を辞めようと思っている。心から敬服する君に一度だけ尋ねておく。本当はどうすべきなのだろうか。すると彼は刹那動きを止め、そばらくそのままでしたが、おもむろに何かをしたためて、ワタシには一瞥もくれずに一枚の紙を渡してくれたのです。この男は大学入学時からの同僚で大変な無愛想ながら実際、誰よりも優しいやつでした。三年時からは寮の棟もかわり昔ほど共に過ごすことはなくなりましたが、やはり依然としてワタシの一番の心の支えになってくれていた男でした。渡された紙には歌が一首したためられていました。

浮き世にて

悲しみのみぞ

つもりにし

この身にあれば

吾がいのち

愛しき国にぞ誰か捧げん

これでワタシの心は決まったのです。

ほら先生、溶岩が海に注いでいますよ、ご覧下さい。真っ赤な地球の血潮が母なる海に踊っておりまする。先生、素晴らしいお友達ですね。そのような志の方々が今も自衛隊には沢山いらっしゃるのですね。ええ、隊員の士気は旺盛です。

今し、大量の溶岩流が波間を真っ赤に染めながら、轟々と音を立てて巨大な蒸気の柱を立てております。先輩、ひとつお聞かせいただきたいのですが、と申し上げると大人(うし)はまるで子供のように無邪気な御表情で小生の方をお向きになります。遠方で流れ込む溶岩流の赤がそのまま瞳に残像となっているかのような生き生きとした眼差しで。隊員の方たちへのお教えで最も重要なことはやはり愛だったのですか。いやいやそれは難しい質問ですね。あまり愛という言葉は出しにくいし、本当に大切なことは軽々しく口に出来ないですから。それにワタシのような至らぬ者が実際、隊員教育などということも恐れ多いことなのです。ただいつもワタシ自身は、死んでくれと頼まれたら迷わず死ねる心でおりました。それがワタシの仕事でした。

またお父さんはつまらない話ばっかりして。ガイドさんが困ってらっしゃるじゃないの。すみませんねガイドさん。とおっしゃりながら奥様は小生の顔をしげしげと眺めていらっしゃいました。

第2話 隊員教育は愛です おわり

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